不思議な言い伝え:フィリピンの「パスマ」の謎

フィリピンの不思議な言い伝え:「パスマ」の謎を解き明かす

熱いアイロン仕事の後、冷たい水に触れると手が震える病気にかかる――。フィリピンには、このような興味深い言い伝えがあります。この現象は、多くの場合「ファスマ」と呼ばれていると耳にするかもしれませんが、正確には「パスマ」という言葉で知られています。この「パスマ」は、単なる迷信ではなく、フィリピン文化の奥深さを物語る、豊かな伝承の一部です。本稿では、この「パスマ」の背景にある文化的な理解、その症状、そして現代医学との関係を探り、さらにフィリピンに息づく多様な言い伝えの世界を垣間見ていきます。

「パスマ」とは何か?症状と一般的な言い伝え

「パスマ」とは、フィリピンの伝統医学において認識されている「民間病」の一つです。これは、現代の医学教科書には記載されておらず、一般的に現代医学では認められていない状態を指します 1。しかし、フィリピンの多くの人々にとっては、日常的に経験され、信じられている現象です。

「パスマ」にかかった際に現れるとされる症状は、比較的明確に定義されています。最も一般的に語られるのは、手の震え(手振れ)、手のひらの過剰な発汗、そして手や腕のしびれや痛みです 1。これらの症状が複合的に現れることを「パスマド(pasmado)」な状態と表現します。

この「パスマ」が引き起こされるとされる典型的な状況は、「アイロンがけの後に水仕事をする」というものです 3。フィリピンの家庭では、母親や祖母が、熱を帯びたアイロン作業を終えた直後に手を濡らすことを思いとどまらせる場面がよく見られます 3。この言い伝えは、単なる特定の家事にとどまりません。激しい肉体労働や運動で体が熱くなった後に、突然冷たい水に触れたり、冷たい環境に身を置いたりすることも「パスマ」の原因になると信じられています 1。例えば、屋外で遊んで汗だくになった子供がすぐにシャワーを浴びることを禁じられたり 4、肉体的に疲労困憊した後にすぐに入浴しないよう忠告されたりするのも、同様の考えに基づいています 3。工場労働者、農民、洗濯婦、アスリートなど、手を酷使したり激しい身体活動を行う人々は、「パスマ」になりやすいと考えられています 2

これらの言い伝えは、フィリピンの人々が長年にわたる日々の観察を通じて、特定の活動とそれに続く身体的な感覚との間に相関関係を見出してきたことを示しています。例えば、激しい労働や運動の後には、筋肉の疲労や一時的な震え、発汗などが自然に起こり得ます。その直後に冷たい水に触れるという明確な行動があった場合、人々はその行動と後の不快な症状を結びつけて理解しようとします。このように、科学的な根拠とは異なるものの、経験に基づいた説明モデルが形成され、それが世代を超えて伝えられてきたのです。

「熱と冷たさ」の理論:「パスマ」の根源を理解する

「パスマ」の信念の根底には、フィリピンの民間医療における中心的な概念である「イニット(init:熱)」と「ラミッグ(lamig:冷たさ)」の理論があります。これは単に物理的な温度を指すだけでなく、体の内部状態と周囲の環境との相互作用に関する全体的な理解を伴います 1。この理論によれば、自然界のあらゆるもの、そして人間の体もまた、「熱い」か「冷たい」かのどちらかに分類されます 2。健康を維持するためには、体内のこれら二つの「体液」または「性質」の間に、繊細なバランスと調和が保たれている必要があるとされています 2

このバランスが崩れると、「パスマ」のような病気が引き起こされると信じられています。アイロンがけや激しい肉体労働、運動などによって体の筋肉(カラマン)が「熱い」状態にある時、急激に「冷たい」もの、特に冷たい水やエアコンに触れるべきではないとされます 1。この突然の変化が「不健康な冷たさ」を体内に引き込み、バランスを乱すことで、「パスマ」の症状が現れると考えられています 1。これは、体の自然な均衡が破られることへの警告と捉えられます。

この「熱と冷たさ」の理論に基づき、「パスマ」を予防したり治療したりするための伝統的な実践も存在します。予防策としては、アイロンがけや激しい活動の直後に手を洗うことを避けたり、運動後すぐにシャワーを浴びるのを控えたりすることが挙げられます 1。また、朝にシャワーを浴びる方が良いとも言われます 1。治療法としては、ショウガ、ココナッツオイル、アルコール、ニンニク、樟脳油などを用いたマッサージが一般的です 1。ぬるま湯に塩を入れて手を浸したり、米のとぎ汁に浸したりすることも「パスマ」を治すのに有効だと信じられています 1

この「熱と冷たさ」の理論は、フィリピンの健康観が単なる身体の不調を超え、環境との調和を重視する全体的な視点を持っていることを示しています。これは、西洋の生物医学モデルが特定の病原体や生理学的システムに焦点を当てるのとは対照的です。フィリピンの民間医療は、健康を対立する力の間の均衡状態と見なし、この世界観が日々の習慣や健康行動に深く影響を与えています。この根底にある哲学を理解することは、「パスマ」のような信念の深さと持続性を真に評価するために不可欠です。

現代社会における「パスマ」:民間信仰と医学の対比

フィリピンで広く信じられている「パスマ」ですが、現代の医学界では独立した病気として認識されていません。医学の教科書に記載されることもなく、現代医学の専門家によって一般的に診断されることもありません 1

しかし、「パスマ」と関連付けられる症状、すなわち手の震え、手のひらの発汗、しびれ、痛みといったものは、実際に存在する身体的な不調です。現代医学では、これらの症状は「パスマ」という特定の原因ではなく、さまざまな基礎疾患の兆候として捉えられます。例えば、手の震えや発汗、しびれ、痛みは、糖尿病、甲状腺機能障害、神経系の機能不全など、具体的な医学的状態と関連していることがしばしばあります 1

このため、もしこれらの症状が定期的に現れる場合、信頼できる医療専門医の診察を受けることが強く推奨されます 2。これは、単なる「パスマ」として片付けてしまうことで、適切な診断や治療が必要な潜在的な健康問題を見過ごしてしまうリスクがあるためです。

興味深いことに、現代の健康アドバイスの中には、伝統的な「パスマ」の予防策と偶然にも一致する行動が見られます。例えば、フィットネスの専門家は、運動後に体を冷まし、心拍数や体温がほぼ通常のレベルに戻ってからシャワーを浴びることを推奨しています 2。これは、体の生理的回復を促し、システムへの急激なショックを避けるためであり、「パスマ」を防ぐためではありません。しかし、結果として、急な冷水への暴露を避けるという点では、伝統的な知恵と現代の科学的アドバイスが類似した行動を導き出すことがあります。

この状況は、伝統的な医療と現代の医療の間に存在する緊張関係を示しています。人々が実際の身体的症状を「パスマ」と解釈し、民間療法のみに頼ることで、より深刻な基礎疾患の適切な診断や治療が遅れる可能性があります。このため、医療従事者は、文化的な信念を尊重しつつも、科学的根拠に基づいた医療への受診を促すという、繊細なバランス感覚が求められます。これは、文化遺産を否定することなく、健康リテラシーを高めるための継続的な取り組みの重要性を浮き彫りにします。

側面

「パスマ」(フィリピンの民間信仰

医学的視点(潜在的な基礎疾患)

定義

急激な熱から冷への温度変化によって引き起こされる民間病。

認識されていない医学的状態。

原因

アイロンがけや激しい活動後の手洗い、急な冷たいものへの暴露。

さまざまな生理学的・神経学的要因。

症状

手の震え、手のひらの発汗、しびれ、手の痛み。

手の震え、手のひらの発汗、しびれ、痛み(他の状態の症状)。

伝統的な治療法

マッサージ(ショウガ、オイル)、ぬるま湯の塩水、米のとぎ汁。

基礎疾患に対する医学的診断と治療(例:糖尿病や甲状腺疾患の投薬)。

認識

フィリピン文化で広く信じられている。

現代医学では認識されていない。

「パスマ」を超えて:フィリピンの迷信の豊かなタペストリ

「パスマ」は、フィリピンに深く根ざした「パマヒイン」(迷信や民間信仰)と呼ばれる豊かな文化の一部に過ぎません。これらの信念は、世代から世代へと受け継がれ、フィリピンの人々の日常生活に深く織り込まれています 5。その起源は、アニミズムヒンドゥー教、仏教、そしてキリスト教の伝統が融合したものであり、独自の文化規範を形成しています 7

フィリピンの迷信は多岐にわたり、その多様性は文化の豊かさを物語っています。いくつか例を挙げましょう。

  • パグパグ(Pagpag):通夜の後の寄り道
    故人の通夜(家での葬儀)に参列した後は、まっすぐ家に帰ってはいけないという迷信があります 5。これは「パグパグ」と呼ばれ、故人の魂が家までついてくるのを防ぐため、途中で「埃を振り落とす」という意味でどこかに立ち寄るべきだとされています 5。これは、死という出来事と心理的な距離を置く、あるいはコミュニティの慣習に従うという側面も持ち合わせています。
  • スコブ(Sukob):同じ年の結婚を避ける
    兄弟姉妹(あるいは時にはいとこ)が同じ年に結婚してはいけないという言い伝えです 5。もし同じ年に結婚してしまうと、二つの結婚に運が分散され、どちらか、あるいは両方の結婚に不幸が訪れる(金銭的な苦労、病気、死など)と信じられています 5。この迷信は、かつて家族の資源が限られていた時代に、一度に二つの結婚式を挙げることによる経済的負担を避けるという実用的な懸念から生まれた可能性も指摘されています 6。
  • タビタビ・ポ(Tabi-tabi Po):精霊への敬意
    精霊が宿るとされる場所、例えば深い森や墓地、あるいは単に見慣れない場所を通る際に、「タビタビ・ポ」(「すみません、通してください」の意)と声に出して言う習慣があります 5。これは、目に見えない精霊や神話上の生き物を敬い、邪魔をしないための方法です 5。もしこれを言わずに精霊を邪魔すると、説明できない病気にかかり、それは「アルブラリオ」(祈祷師や陰陽師のような存在)しか治せないと伝えられています 5。
  • パンシット(Pancit):長寿を願う麺料理
    誕生日などのお祝い事には、パンシット(ヌードル、麺)を食べるという習慣があります 5。これは中国や東南アジアでも一般的ですが、「長寿」を呼び込むと信じられています 3。

他にも、夜に掃除をすると幸運を掃き出してしまう 7、屋内で口笛を吹くと悪霊を招き入れる 7、手のひらが痒いと 右手が金銭を得る、左手が失う  7、新年に大きな音を立てたり爆竹を鳴らしたりすると悪霊や不運を追い払う 7、家の階段の段数を3で割り切れないようにする(「オロ(金)、プラタ(銀)、マタ(死)」と唱えながら上がり、「マタ」で終わるのを避けるため) 5、といった多種多様な迷信が存在します。

これらの迷信の多くは、単に不運を避けるためだけでなく、社会的な規範を強化したり、心理的な安心感を提供したり、あるいは実用的な懸念から生まれたりしています。例えば、「パグパグ」は死との心理的な区切りをつける役割を果たし、「スコブ」は家族間の経済的・感情的な負担を考慮した知恵とも解釈できます。また、「タビタビ・ポ」は、自然や見えない存在への敬意を育み、社会的な調和を促す役割も担っています。このように、迷信は単なる非合理的な信念ではなく、文化的なメカニズムとして社会秩序を維持し、価値観を伝え、人生の不確実性を乗り越えるための共有された枠組みを提供しているのです。

フィリピンの伝統を受け入れる:文化的な考察

現代化が進む世界において、フィリピンのこれらの伝統的な信念は、依然として力強く生き続けています。それらは子供の頃から物語や寝物語を通じて伝えられ 6、現代のフィリピン人の心に深く根付いています 1。これは、フィリピンのアイデンティティ文化遺産の不可欠な部分であり、世代を超えて受け継がれることで、その生命力を保っています。

これらの伝統は、単なる過去の遺物ではありません。それらは、人々が自らの世界を理解し、説明のつかない出来事に意味を与え、コミュニティの価値観を強化するための手段として機能しています。西洋の科学的知識が普及する一方で、フィリピンの民間信仰がこれほどまでに根強く残っているのは、文化的なアイデンティティの強さと、伝統的な知識体系が現代的な影響と共存し、適応していく能力を示しています。これは、単なる「古いもの対新しいもの」という単純な対立ではなく、伝統的な信念が多くの人々にとって依然として意味と関連性を持ち続けているという、複雑な統合の現れです。

フィリピンの民間信仰を理解することは、その文化のユニークな側面を深く知ることに繋がります。これらの信念の背後にある文化的、歴史的、そして時には実用的な理由を掘り下げることで、私たちは単なる「迷信」という表面的なラベルを超え、その国の豊かな文化のタペストリーを真に評価することができます。これらの独特な信念こそが、フィリピンという国を魅力的な存在にし、その文化的な多様性を際立たせているのです。

引用文献

  1. Pasma - Wikipedia, 6月 11, 2025にアクセス、 https://en.wikipedia.org/wiki/Pasma
  2. What is pasma? How do you deal with it? - Pinoy Fitness, 6月 11, 2025にアクセス、 https://www.pinoyfitness.com/2015/04/what-is-pasma-how-do-you-deal-with-it/
  3. Do You Believe in These Pinoy Health Superstitions? - Makati Medical Center, 6月 11, 2025にアクセス、 https://www.makatimed.net.ph/blogs/do-you-believe-in-these-pinoy-health-superstitions/
  4. 10 Pinoy health myths debunked (part 2) - Medicare Plus Inc., 6月 11, 2025にアクセス、 https://medicareplusinc.com/articles/10-pinoy-health-myths-part-2/
  5. 6.フィリピンの古くからの言い伝え・迷信, 6月 11, 2025にアクセス、 https://jami.ph/wp-content/uploads/2022/05/01_202204-06_tokushu6.pdf
  6. Superstition in the Philippines - Wikipedia, 6月 11, 2025にアクセス、 https://en.wikipedia.org/wiki/Superstition_in_the_Philippines
  7. Exploring Filipino Superstitions and Beliefs - Festive Pinoy, 6月 11, 2025にアクセス、 https://festivepinoy.com/exploring-filipino-superstitions-and-beliefs/